美しい日本語の先生

中学生になるとクラス担任の先生は各々に専門教科を持っていました。1年生の時は保健体育が専門の先生。2年生からは国語が専門のヒロコ先生が私のクラス担任でした。

ヒロコ先生は校内でも随一の情熱家。愛のある厳しい指導をしてくれることで、ある意味「名物先生」でした。

生徒のためと思えば時には心の底から叱ってくれたり、大粒の涙を見せてくれたり、強く励ましてくれたり、そしてとても豪快に笑う、感情表現の豊かな人でした。

中学生という多感な時期の生徒と真正面から向き合い、生徒や保護者の顔色を伺うようなことはなく、決して見て見ぬふりをすることもなく、良いものは良い!悪いものは悪い!と、はっきり言い切る人でした。

私はというと、あの頃の感情はとてもふわふわしていて、ヒロコ先生とは対照的に毎日が半透明。良いでもなく悪いでもなく、ただ小さな社会から振り落とされないように必死にしがみついていました。

ヒロコ先生はその人格ゆえ生徒から人気がありました。国語の授業の決まり文句は「美しい人間になるために美しい日本語を使いなさい」。少しでも言葉が乱れると「美しくありません!」と、ぴしゃっと矯正されてしまいます。

曰く、美しくない日本語とは文法の云々ではなく、心を乱す言葉のこと。発した本人も聞かされた周りも後味が悪く、心がザワザワする言葉、心がヒリヒリする言葉。

発する言葉が人格をつくるというけれど、まるで毎日が日本語の合宿生活のように、日常的に美しい言葉を選ぶことに意識を使った中学時代。これほど体現できた(させられた!)のは、ヒロコ先生のクラスに配属された私たちの特権であり、巡り合わせの賜物でしょう。

あの頃を思い出すと今でも背筋がのびるのです。

意識的に美しい言葉を選び、心を乱す言葉を排除する。

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